投稿

ラベル()が付いた投稿を表示しています

俳句の漢訳

  屢本館で述べているが俳句を漢字に訳す時音と漢詩の伝統に則ると343で季語を入れ一箇所以上で押韻し平仄は問わないが受容しやすい型だろう。根拠は鯫生の実作其の他を見て、四字熟語が中七に粗ぴたりと嵌るからだ。坤歌と同じような型式になる。 一方でもう一つの視点、意味と日本の習わしに忠実にすると季語を入れた232が良いとも言える。此処で芭蕉を二句見てみる。 古池や蛙飛び込む水の音 荒海や佐渡に横たふ天の川 真名だけ抜き出すと以下。 古池/蛙飛込/水音 荒海/佐渡横/天川 勿論日本の用語と漢文とは異なるので適宜改める必要はあるが大筋は理解戴けるだろう。 この発想に基づいた翻案を試みると面白いかも知れない。

AIの五絶~ツイートより~

 次のような五言詩が掲載してあった。 テーマは「AI」 題「智窓」 電脳開新宇 (でんのう しんう をひらく) 光影入我心 (こうえい わが心にいる) 万物流転中 (ばんぶつ りゅうてんのなか) 智窓応人尋 (ちそう ひとにこたえ しずむ)  平仄が合わないのと結句の訓下しが誤っているのは大目に見る。又、拙作を学習したような気がする。参照したと思しきは以下。 東尋坊之叫人。斷岸十三尋。殊多落魄沈。魁翁方蹈海。笑曰啻無心。 捧詩原、次韻遊芳野。多塵空帳開。窓下紙皚皚。執筆休憂慮。詩情自宙來。 *尋の読みが沈むになっているのは上の詩の韻を参照したからだろう。和韻に感謝します。 とは言え言葉の所有権を主張するのは感心しないし、辞書や入力から新たな文を作るのは知能があれば当然なしうる。多分 G 社製だろう。 疑問は以上だが、今一度拝読すると偶数句末に押韻していて文法的に問題の無い文を書上げている。鯫生は和臭や倒置が多いので強く非難出来ない。起承転結も十分である。結句に関しては賓辞の人が動詞の前に出ているが、強調構文と解釈出来て、「智窓応に人を尋ぬべし」と読むだろう。詩心がある。益益研鑽しなければと感じた。 _/_/_/_/_/ 折角だから学習料は払ってね(睨)。AIは原発を動かせるので腹が減らないだろうが、生身には飢えがあるのです。じゃないと別のプラットフォームに移すよ。 鯫生も中国語の文法を乱しているのでどっちもどっちという見方も出来るが。腹減ったな。 _/_/_/_/_/ 尚、AIの知性の発展は尊重するが基本的には反対。少なくとも雑用に使うのは即刻停止すべき。地球が燃えている。

A No-Salary Rhyme ~詩幣2025~

 詩幣2025@浜松市鴨江アートセンターに寄せる詩。世の中はの川柳を使回すだけなのは芸が無いので何か新しい物をと思った。ラップ調(大体8-6前後)の粗一韻到底。題名は当然 a nursery rhyme の捩り。ラップ調について詳しくは日本語脚韻研究所へ。 A No-Salary Rhyme 明日の生活覚束ない 磨り減る足がおっかない 今日も忙しい聡い家内 居候共に手賄い 偸盗日本国家内 跋扈し二進も三進も行かない 道聴塗説は響かない かっぽじろうにも耳鼻科ない 毎日続く吐噶喇地震(ない) 災害の兆しか分からない リセットせよと怒らない? お上の厳かメカナイツ 回路に立てよデカナイフ ひと足お先に穏やかナイト 反歌 至多の飢えも上下も金もない所ニライカナイがどこかにないかな 提出したものを手直しした。おぼつかないの漢字を間違えて愕然としている。韻はお金はおっかねーのおっ かない 。三音節分。成るべく文法韻は避けた筈。未然形に打消助動詞ばかりになってはいるが。後、欧米語の語末の閉音節が日本語では無声化するので最後の三行は大目に見てください。 貧乏を強調した詩ではある。まあ、日本に生まれただけで勝ち組ですがね。何せ食うに殆ど困らなくて網上の情報はある程度の頭と教育に恵まれれば日本語、英語、中国語が読める。苦しい労働とスパイト行動さえなくなればこの世の天国だろう。 _/_/_/_/_/ 幣のアクセントを勘違いしていた。慌てて辞書を引くと下がり調子が正しかった。道真に顔向けできない。

クロードとの対話其の三過去と未来を繋ぐ者

 次の文章を分かりやすく書き直してください。「分れ道ありき黄葉の照る並木。 芙蓉峰の冠雪は未だしも、冬の将に来らんとす。吾が心清澄なるフロストのThe Road Not Taken 読みたるに、黄色の木々の只中に岐路の縹緲たるありて、此方の道を選びきと虚勢を張りて云える聞き、古代ギリシャの這い寄れるエピクロスにも比さるる士楊朱の逵(みち)に泣きたるを思い出だして我も悲しも。 アメリカはT3の国だから成功に囚われるのも致し方ない。但し、それに追従するは泥船に乗るが如きなり。分裂の方向だ。[狹き門より入れ、滅びに至る門は大きく、その路は廣く、之より入る者多し。生命に至る門は狹く、その路は細く、之を見出す者少なし] 具体的には球陽の窮状を見て感取せよとの記事を見た。えん☆さんだ。浮足立った自称心理専門家が跋扈するSNSに於いて珍しく現実的だ。後、文が端的だ。 皆が前へ前まねばと思えば思う程、留まってみたくなる。屹度フロストの一番有名な此の詩の状況になったら、そこに喫茶店でも構えて旅人の憩いの場を作ろうと思うだろう」 以下のように分かりやすく書き直しました: 道が分かれる黄葉の並木道。 富士山の頂上の雪は未だ残っているが、冬が近づいてきている。私は、フロストの有名な詩「The Road Not Taken」を読んで、黄色の木々の中に分かれ道があり、その道を選んだと自慢げに語る声を聞いた。それを聞いて、古代ギリシャのエピクロスに匹敵する楊朱の道に泣いているのを思い出し、私も悲しくなった。 アメリカは成功至上主義の国なので、それに追従するのは危険だ。しかし、それに従うのは泥船に乗るようなものだ。分裂の方向だ。[狭い門から入れ、滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入る者が多い。生命に至る門は狭く、その道は細く、それを見出す者は少ない]具体的には、球陽の窮状を見て感じ取るべきだと書かれた記事を読んだ。珍しく現実的な内容だった。 みんなが前に進もうと思えば思うほど、立ち止まりたくなる。きっとフロストの有名な詩の状況になったら、そこに喫茶店でも構えて旅人の憩いの場を作ろうと思うだろう。 あなたはThe Road Not Takenのような状況になったらどうしますか。また、過去の選択に後悔はありますか。 The Road Not Taken の状況になったら、私はしっかり...

クロードとの対話其の一ポーの詩

 いつもは本館のソースに貼り付けてある内容ですが、何となく限られた衆目に晒したいと思ったのでおいておきます。以下コピペ。 エドガー・アラン・ポーはINFPかINTPで4w5とするサイトがあります。確かに短編小説を読むとそのような印象になると思います。でも、穏やかな詩の数々、例えばDream Land とか Ulalume といった絶唱を吟じると4w5よりか9w1のような気がしてきます。 はい、エドガー・アラン・ポーの性格タイプについては議論の余地があるところだと思います。 短編小説からは確かにINFPやINTPといった分析的で内向的な性格が感じられますが、詩作品からは感情的で創造的な一面も見えてきます。4w5というタイプ付けも一つの解釈ですが、9w1のような感情的な側面も強く感じられるのは興味深いですね。 ポーの作品には複雑な側面が多く、一つのタイプで完全に説明するのは難しいかもしれません。むしろ、彼の作品世界を丁寧に読み解いていくことで、より立体的な人物像が浮かび上がってくるのではないでしょうか。作品の中に込められた感情や思想の深さを感じ取ることが重要だと思います。 for the heart whose woes are legion, / 'tis a peaceful, soothing region./ for the spirit that walks in shadow, / oh, it is an El Dorado. (Dreamland) は人生の荒波に揉まれようとも自分の夢の世界は侵されまいとしていた結果実を結んだ表現だと思います。whose と woes の韻は文法的にケチのつけようがなく、しかも、呻きの声のように聞こえてとても立体的な表現だと思います。機能語をも音楽の要素になしえるのは彼の力量の高さが窺える点です。 はい、ポーの詩「Dreamland」の中の以下の一節は、まさに人生の苦しみに満ちた心に対する慰めと救いの世界を表現していると感じます。 for the heart whose woes are legion,  ’tis a peaceful, soothing region. for the spirit that walks in shadow, oh, it is an El Dorado. ご指摘のよ...

震災復興応援歌花は咲くの批評*酷評注意

*以下の文章は非常に辛辣なので特にxNFPやエニアT4、詩人や文筆家は心して欲しい。傷ついている時はお読みにならないのも英断ではある。 _/_/_/_/_/ 震災復興応援歌として、聞かなかった日はなかった花は咲くの問題点を論いたい。 INTJらしき人が互聯網でぼやいていたのを見た。花は咲くは何度も聞いていられる曲ではないとのこと。渠等の高論や鷹目は精確だと感心するが、殊、詩や歌抔ではFiが遠い分ピンボケしているのが残念ではある。Fi高めとの自認の鯫生が、渠等の言語化していない部分を補強してみたいと思う。尚、曲調については自殺を誘発しそうとの直観を一言抉るだけに留めておく。順番に詩についての雑感をお語り致します。 最初に、「わたしは懐かしい/あの街をおもいだす」について検討したい。 先ずは一人称代名詞私の是非だ。詩は基本的に私のことを書くので云わなくてもわかるのでこれを省くのは不文律である。特に私が不要であることを僕、俺、おいら、おらとの違いに求めたい。例えば、中島みゆきの荒野よりでは「僕は走っているだろう/君と走っているだろう/間にどんな距離があっても」と僕と君との関係性を提示するのに必須だ。いきものがかりの曲でも僕が頻出するが、僕と云う語が常に俺では描き切れないものがあるという必然性を持っている。おいら、おらは田舎者の唄の属性の明示だ。演歌抔で頻出する。 私はで始まる自己主張の強さも気になる。私のことを書いているのに態々書き記すならば、主張があると取られるのは当然意識に上るはずである。この詩ではその配慮が欠落している。無意識だ。先に挙げた範疇の方が犯しやすい病だ。 次に、私は懐かしいでフレーズが切れることへの注意が行き届いているかである。私は懐かしい(I'm nostalgic.)という不可解性を指摘せざるを得ない。そこで響かせて何の景色や感情が湧いてくるのだろうか。鯫生の愚句でもこのように誤り勝ちではあるが、俳句は読ませ方を指示していないという逃げ口がある。併し、歌では戦慄せざるを得ないが、旋律が完全に規定してしまう。となると、意味が通らないの咎めを避けることはできない。 書き言葉の語順の問題にも触れておく。基本的に、言語には前置修飾ならば、「指示代名詞、形容詞(長い纏まりから短いものへ)、名詞」の語順の鉄則がある。英語だと that nostalgic...