僧侶擬きと喧嘩した夢
或る時訪れた知らない地域の寺院で僧侶が私見を開陳した。この[自称自己啓発]本の著者のスポーツ教育法に感銘を受けました。学校教育は見習って導入すべき方法ですと宣った。鯫生は吐き気を抑えきれずに即座に反駁した。気持ち悪いので勘弁して下さいと。当然僧侶は気を悪くして怫然として下がっていった。後に面を整えた渠を見たので話を続けてみた。すると、こちらが今朝薬を服用したかいきなり尋ねて来た。毎日指定量を服用していますと正直にお答え申上げると、知合いにあなたのような方を扱う人が居るので、気になって聞いてみたと仰られた。その上で先程の回答としてお腹をゆっくりさすって大丈夫だよと言うような温かみが現代の公教育には足りていないので進言した次第だと御高説を賜った。今度は反吐を途中で抑込みそこに至る迄の具体的な信用を勝取る方法論が欠けていませんか。それに今、小中で実行すると警察沙汰になるのはお知りにならないのですかとお尋ねすると返答に窮されたようだった。話題を転換して読書だって[自称]自己啓発本から始めるべきだと思いますといらっしゃるので、矢張眩暈を耐えてから私は[自称]自己啓発本は読書ではありません。あれは周囲の人々を観察して自ら得るべき知見の内の極度に主観的なものです。真面な人には不要どころか毒に成り兼ねませんとお返しした。此の僧侶の読む本の内訳が知れ渡ったので矢継ぎ早にそれよりも仏典には為になる本がたくさんありますねと窺った。普段読誦している癖に内容を理解していないと見え、法華経、歎異抄、般若心経、碧巌録或いは法語禅語の幾つかを探ってみたが無反応だった。だから、今昔物語に信仰心はあっても学の無い僧侶が妖に騙される話が出てきます。渠は聡い俗世の友を持っていたことで迷妄を破ることが出来ました。又、日々山にこもって修行に励むだけで教えを示すことが無かったので自身の暗愚を広める事がありませんでしたと締めた。 鯫生が僧侶を嫌うのは散人よりも仏典を読解できず、引籠りよりも世事に疎い癖に読経と説教で口過ぎをする度胸の良さを隠さないからである。端的にはその無知蒙昧厚顔無恥が癪に障るのだ。序でに此の僧侶の場合は此方が精神障碍者だから道理に明るくないのだと認知的不協和を正そうとしていたことに無自覚だった点が困る。自身のした差別にすら気が付かない業の深さに嘆息するばかりであった。もしかしたら今も...