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震災復興応援歌花は咲くの批評*酷評注意

*以下の文章は非常に辛辣なので特にxNFPやエニアT4、詩人や文筆家は心して欲しい。傷ついている時はお読みにならないのも英断ではある。 _/_/_/_/_/ 震災復興応援歌として、聞かなかった日はなかった花は咲くの問題点を論いたい。 INTJらしき人が互聯網でぼやいていたのを見た。花は咲くは何度も聞いていられる曲ではないとのこと。渠等の高論や鷹目は精確だと感心するが、殊、詩や歌抔ではFiが遠い分ピンボケしているのが残念ではある。Fi高めとの自認の鯫生が、渠等の言語化していない部分を補強してみたいと思う。尚、曲調については自殺を誘発しそうとの直観を一言抉るだけに留めておく。順番に詩についての雑感をお語り致します。 最初に、「わたしは懐かしい/あの街をおもいだす」について検討したい。 先ずは一人称代名詞私の是非だ。詩は基本的に私のことを書くので云わなくてもわかるのでこれを省くのは不文律である。特に私が不要であることを僕、俺、おいら、おらとの違いに求めたい。例えば、中島みゆきの荒野よりでは「僕は走っているだろう/君と走っているだろう/間にどんな距離があっても」と僕と君との関係性を提示するのに必須だ。いきものがかりの曲でも僕が頻出するが、僕と云う語が常に俺では描き切れないものがあるという必然性を持っている。おいら、おらは田舎者の唄の属性の明示だ。演歌抔で頻出する。 私はで始まる自己主張の強さも気になる。私のことを書いているのに態々書き記すならば、主張があると取られるのは当然意識に上るはずである。この詩ではその配慮が欠落している。無意識だ。先に挙げた範疇の方が犯しやすい病だ。 次に、私は懐かしいでフレーズが切れることへの注意が行き届いているかである。私は懐かしい(I'm nostalgic.)という不可解性を指摘せざるを得ない。そこで響かせて何の景色や感情が湧いてくるのだろうか。鯫生の愚句でもこのように誤り勝ちではあるが、俳句は読ませ方を指示していないという逃げ口がある。併し、歌では戦慄せざるを得ないが、旋律が完全に規定してしまう。となると、意味が通らないの咎めを避けることはできない。 書き言葉の語順の問題にも触れておく。基本的に、言語には前置修飾ならば、「指示代名詞、形容詞(長い纏まりから短いものへ)、名詞」の語順の鉄則がある。英語だと that nostalgic...

国葬について

国葬を執り行うには建前が必須だ。血税を投入するからだ。 特に政治家の場合、経済指標を一切考慮せずに荘厳してその場を取り仕切った自分たちの権威を知らしめるという機能があるように窺管した。 昔、中国戦国時代の魏の宰相恵施が前王恵王の国葬について諫めた話がある。そこでは豪雪は故人の意思であるからこれを尊重して葬儀の日程等を勘案しなくてはならないと云っている。 今、政治家の発言は記録されている。生前にさんざっぱら国民の生活が第一だとか、経済が大切とか仰っていたのは周知の事実。党友諸氏はその高邁な御意思に反してはならない。 或いはもし強行したいのならば伝統的宗教観を持ち出して牽強付会する方法がある。 例えば或る首相経験者は国民によく知られ敬われていたにも関わらず凶弾に仆れその御霊は荒ぶっておられる。だから、盛大な葬儀を開催して鎮めなければならないとでもすればよい。靖国参拝の実情と牴牾するところがないので諸外国も理解を示すかもしれない。 蓋棺事定(←何故か変換できた!)とあるように、人の評価は恣意的に操作できるものではない。少なくとも上級には無差別の愛情を持っていた人があれば、生誕百周年や死後五十年に自ずから哀悼や敬愛の念が高まり祭典を企画する私人が後を絶たないだろう。国葬はその後でも遅くはないと思われる。 建前の御高説の後、載舟覆舟を御覧になるのが筋たるものと愚考致します。