震災復興応援歌花は咲くの批評*酷評注意
*以下の文章は非常に辛辣なので特にxNFPやエニアT4、詩人や文筆家は心して欲しい。傷ついている時はお読みにならないのも英断ではある。
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震災復興応援歌として、聞かなかった日はなかった花は咲くの問題点を論いたい。
INTJらしき人が互聯網でぼやいていたのを見た。花は咲くは何度も聞いていられる曲ではないとのこと。渠等の高論や鷹目は精確だと感心するが、殊、詩や歌抔ではFiが遠い分ピンボケしているのが残念ではある。Fi高めとの自認の鯫生が、渠等の言語化していない部分を補強してみたいと思う。尚、曲調については自殺を誘発しそうとの直観を一言抉るだけに留めておく。順番に詩についての雑感をお語り致します。
最初に、「わたしは懐かしい/あの街をおもいだす」について検討したい。
先ずは一人称代名詞私の是非だ。詩は基本的に私のことを書くので云わなくてもわかるのでこれを省くのは不文律である。特に私が不要であることを僕、俺、おいら、おらとの違いに求めたい。例えば、中島みゆきの荒野よりでは「僕は走っているだろう/君と走っているだろう/間にどんな距離があっても」と僕と君との関係性を提示するのに必須だ。いきものがかりの曲でも僕が頻出するが、僕と云う語が常に俺では描き切れないものがあるという必然性を持っている。おいら、おらは田舎者の唄の属性の明示だ。演歌抔で頻出する。
私はで始まる自己主張の強さも気になる。私のことを書いているのに態々書き記すならば、主張があると取られるのは当然意識に上るはずである。この詩ではその配慮が欠落している。無意識だ。先に挙げた範疇の方が犯しやすい病だ。
次に、私は懐かしいでフレーズが切れることへの注意が行き届いているかである。私は懐かしい(I'm nostalgic.)という不可解性を指摘せざるを得ない。そこで響かせて何の景色や感情が湧いてくるのだろうか。鯫生の愚句でもこのように誤り勝ちではあるが、俳句は読ませ方を指示していないという逃げ口がある。併し、歌では戦慄せざるを得ないが、旋律が完全に規定してしまう。となると、意味が通らないの咎めを避けることはできない。
書き言葉の語順の問題にも触れておく。基本的に、言語には前置修飾ならば、「指示代名詞、形容詞(長い纏まりから短いものへ)、名詞」の語順の鉄則がある。英語だと that nostalgic city だ。日本語は語順の束縛は弱いが、伝わりやすくするためには明文化していないこの玉条には遵守した方が良い。則ち、あの懐かしい街を(私は)思い出す。が自然だ。
以上の論を覆すことになりかねないが、私は懐かしいあの街を思い出すの冗長性も述べておきたい。この部分はあの街(または、故郷抔)の一単語に集約できる。また、具体性を欠いている。懐かしいと感じる名詞で語った方が良い。愚考ではあるが、広い共感を呼び起こすための言葉として次の句を作った。あの街の家々/ふたたびはない日へ。一応一音節半の韻を踏んだし音数も揃っている。家々と具体的にお出しすれば、それを私が懐かしく思い出していることなど云うに及ばずである。多少なりともましになった気がする。
曲中で4回も登場するので工夫が欲しかったと結論する。
話はCメロに移る。「誰かの歌が聞こえる/誰かを励ましてる/誰かの笑顔が見える/悲しみの向こう側に」について穿鑿したい。
中途半端な韻が凡庸である。ここでは押韻が半分文法韻だと判断するのが普通であろう。動詞の活用語尾同士では意外性が全くない。先の添削例の如く、また、(短兵急な宣伝を差し挟むが)鯫生の詩の博客の所くに、別の品詞や語源を共有しない名詞の組を韻と呼ぶ。
誰かとは誰か、必要かとの質問も投げかけたくなる。具体的に書くか、抑省略して表現したい。励ましの歌と笑顔は悲しみの向こう側だけで伝わるので、無駄に韻を踏まなくてもよい。唐突に韻を踏まない悲しみの向こう側ににも控えめに云ってがっかりする。常套句。クリシェ。何をか云わんや。この程度ならば、文法韻でも良いからライムを外すべきではない。
愈々、サビを俎上に載せる。「(ry)花は咲く/いつか生まれる君に/(ry)花は咲く/わたしは何を残しただろう」について著したい。
個人的には花よ咲けとしっとり口遊んだ方が気分が落ち着く気がするし、応援歌に相応しいと愚考するが、その部分は好みだろうからこれ以上は言及しない。
そんな些事よりも小首を傾げざるを免れないのは、いつか生まれる君に歌って何になるのかとの事だ。応援歌ならばそこにいる人の為に先ずは歌えと喝を入れたくなる。隣人に客にそして、散々主張した自身に活を入れずにどうするのか。近年では(勿論10年以上前の制作当時からだが)自主的な人類絶滅運動、反出生主義が台頭してきて次世代に無責任に負の遺産を相続させるのは如何なものかと議論百出である。この潮流にも逆らっている。穿る人は歌詞の意識の裏に放縦さを指摘するだろう。
再びの一人称代名詞私の是非を取り上げたほうが良いと思われる。主張が強い。それよりも、私はの4音で音を響かせよ。4音を削ればいつか生まれる君にと同じ10音になる。サビの繰り返しでは後の音数の少ない方が余韻嫋嫋として心地よい。この基本程度は分析できないのだろうか。
以上滅多打ちしたのには故無きには非ず。これが電波によって洗脳する性質を持ち合わせているからだ。鯫生が大概の芸術作品に物申すことはまずないのは、味わうかどうかの選択肢があるからだ。嫌なら関与しないのが上策だ。だが、こうも電視、電脳を横行奡傑されると湮晦しても遁れきれない。詩の押しつけがましさが万倍されるのである。街角でも聞こえて、数多の美声が動かさない梁の塵は無い程である。哲学的なことや病的なことは政治や世俗と没交渉なのに越したことはない。皆善の善たるを知るは不善なるのみだ。
では、健全な公の詩を作るために私たちに何が出来るか考えてみよう。
作り手の意識としては、酔ったまま公共の詩を書かないことだ。ロングフェローの A Psalm of Life は陳套極まりないが意味と言葉遣いはけちをつけようがない。ホイットマンの Song of the Open Road は韻も律もばらばらだが、勇気づけられる。これらの人が果たしてボードレールが記したように酔っていたのだろうか。酔っていたとしても、大きく時代精神を外れなかったのではないか。チャリティーソングやテーマソングでは、美徳に酔っても良いが、人心から乖離し過ぎてはならない。病みを共有するなどもっての外である。精神状態が安定しているかは必ず人の目を通して頂きたい。
受け手の意識としては逆にxNFPやT4を尊重する必要がある。渠等の酔いを少しだけ共有して受け入れるのだ。その上で渠等の闇が普遍的であることを暗示する余裕があれば鞭声粛々と薫陶するのが最善だ。ただ、カウンセリングの理論は身につけた方が良いので、素人は同工異曲の渠等の嘆きに共感できた時は、匿名でいいねするだけに止めるのが良い。理論をぶら下げるのも手だ。そうすれば、賢い渠等は自身を磨き始める。何時かは心に残る鸞吟を拝聴できるかもしれない。
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一応これは自戒でもあると付記した方がよさげなので書いておく。
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